2013年11月11日月曜日

「持続可能な社会」とは、「他人の尊厳と誇りを犠牲して俺たちの生活を豊かにする」という隠語なのか?

まず、おさらいから。

JABが「JAB環境ISO大会 「持続可能な社会の実現に向けて-環境ISOの役割-」というのをやってます。(ました?)


環境省も「循環型社会への新たな挑戦(PDF)」というものを公開しています。




ここに出てくる「循環」にしろ「循環可能な社会」の範囲とは、どのまでのことを想定していっているのだろう?

というのが本日の考察お題です。

日本では「循環型社会形成推進基本法」という法律を日本のエコ活動の総本山である「環境省」が管理・総括しています。

環境活動の中ではよく、「エネルギーや資源の有効利用」のお題目の元、「省エネ」や「再資源」などの活動が実施されており、ごみの分別といった一般家庭にまでその活動範囲は浸透しています。


エネルギー資源や物質的な資源の多くを輸入に頼らざるを得ない日本ですから、国内に限定されるんだろうか? と予測します。
循環するわけですから、循環量が増えれば単純に輸入量が減ります。

減るということは、それらの資源を採掘・搬出している人たちが従来持続させていた生活の糧を奪うことになるのですから、当然失業となり、彼らのコミニティを形成する基盤に影響を及ぼすこととなります。

環境省の政策を推進する人たちの行動によって被害を受けるのは、いったいどういった人たちか?



記事:南アフリカの石炭に隠された闇(スーザン・フォーゲル・ミシュカ, swissinfo.ch )

大本はスイスの記事です。

記事元にもエネルギーの問題がふれられていますが、特徴的なのが一人の労働者で親家族を含め10人分を養える点でしょう。
とはいえ、その労働者が裕福な生活をしているかと思えば、インフラが十分に整っていない点もあり、そうではない点と、その人の収入に対する他の人の依存度が高そうな点でしょう。記事にあるモデルでは、労働者一人がたくさんの親類を支えなければならないとあります。実際にそうでしょう。
南アの失業率は25%近く、日本の3%未満と比較すると明らかに高い数値をみせていますんで。
資源を売り物にしている労働者への依存度がこうも高いと、労働環境が奪われれば貧困となり、治安悪化の原因につながります。

本音はともあれ、少なくとも、環境省の進める政策は結果として「そういった人たちを切り捨てることもやぶさかではない(キリ」ということとなる可能性をはらんでいます。
結果、国内での循環を謳う場合、やはりこういった生活弱者の生活を犠牲にはらむということを認識した方が良いのでしょう。



次に、国内の問題です。これらの政策は国内で回すのか、都道府県内で回すのか?という点です。
循環させる以上、「資源」「製造」「製品」「流通」「消費」「廃棄物」「再資源」「製造」…………は、一連の流れとしてマネジメントする必要があります。
「資源」をすべて「国内」から調達できる。と仮定しても、どうしたって「県内ですべてを回す」というのは厳しい状況です。
家電に関しても衣類に関しても「メイド・イン・チャイナ」を除外できてねーし。国外からの生産・輸入の依存度が高すぎ放置で、環境省なにやってんの? 経済産業省なにやってんの?と言いたい。
また、この工程の中には必ず「事業者(法人)」を介入されますし、事業者を除外することも不可能です。

なので、一連の工程(マネジメント)を考えたとき、これらの循環を妨げる要因は当然、統括している環境省なり経済産業省が指導を行い、除外することを求められると思います。

しかし現状、これらの障害を除外する気はなく、各都道府県の担当に丸投げするという仕事の放棄という姿勢を見せています。

具体的に言えば、県外へ産業廃棄物を持ち出すときは、事前協議が必要だとか持ち込みを拒否されるなどです。
消費者が消費をしなかったら経済が回りませんから、消費されることが前提の社会が形成されている以上、循環型を謳うなら消費された後に排出される排泄物の処理なり再資源化の流れを妨げる行為は、循環型の社会形成を目指すうえで障害となります。

最終的に再資源化になるとしても、有価物として処理する場合は問題としないが、廃棄物として処理する場合は問題とする。という姿勢を見せる環境省も県条例も変な話です。
循環型社会形成を謳いながら、循環を行政自身が妨げている。
産廃業者や再資源業者にとっては、これらの制度は百害あって一利なしでしょう。まぁ、敵は行政にありで、産廃業者の横の結びつきはものすごく凄くて、下手に他の業者に替えようと考慮するだけで、何処からかその情報を取得してくる恐ろしい連中でもあります。生活掛かっているから、彼らも必死なんでしょう(苦笑)

となると、循環とは「どこの範囲で循環することを指すのか?」
結局のところ、何処も循環していないという結論になります。となると、これらを謳うことで「誰が利益を得るのか?」という利害関係を考えなければなりません。
現状、下手に法律がうるさくて金がかかるのが実情です。となると、国内で循環を回そうとすると、経費が高くなる。回れば回るほど、関税のような仕組みに阻まれる。
なるほど、循環型社会形成というのは、行政が金をむしり取るための方便と言うのが一つ考えられます。次は、もっと法律が緩い金の掛からない場所からの誘致前工作も考えられます。



こうして適当に並べ上げてみましたが、本当に考えれば考えるほど、「行政が謡う環境活動はである」としか思えなくなってくる不思議ですねぇ…………

2 件のコメント:

  1. 循環型の象徴とも言えるペットボトルは市場価格が安いとモノが余りまくって商売にならず、逆に市場価格が上がると中国が持ってってしまうので、モノが手に入らないというアホみたいな矛盾を抱えています。
    水銀の規制も、日本が輸出をしなくなることで国際価格が急騰して途上国での生活を逆に圧迫する危険もあります。「循環さえすればそれでいい」とは活きませんで・・

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    1. 名古屋鶏様、まいどです。
      「缶」「びん」「牛乳容器」「新聞紙」みたいに、金になるなら自然とそれを商売とする業者が出てくるもので、それに任せるのが本当なんでしょうね。
      >逆に市場価格が上がると中国が持ってってしまう
      やはり、中国は油断ならないっすね。

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